日立製作所、日産自動車、日本鉱業。
これらの名だたる企業の源流を遡ると、一人の男に辿り着く。
久原房之助(1869-1965)。「鉱山王」と呼ばれた男だ。
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。
しかし、彼の経営は順風満帆ではなかった。創業直後から次々と危機が襲いかかる。資金難、人材流出、そして鉱山の「死活を決する」煙害問題。
普通の経営者なら諦めるような絶望的な状況で、久原は一つの決断を下した。
「世界一の煙突を建てろ」
当時、誰も挑戦したことのない高さ156メートルの大煙突。莫大な費用、技術的困難、成功の保証はゼロ。それでも久原は賭けた。
そして、その賭けは成功した。
1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった。
久原房之助が教えてくれるのは、危機をチャンスに変える経営者の思考法だ。
「問題から逃げない」 「地域と共存する」 「人材を信じて任せる」 「失敗しても、次の手を打つ」
激変する現代のビジネス環境で、私たちは久原のように、危機の中にこそ成長の種を見つけることができるのか。
36歳で一山を賭けた男の、95年の波乱万丈の人生から、ビジネスの本質を学んでいこう。
36歳、全財産を賭けた大勝負
久原房之助は1869年(明治2年)、長州・萩城下の唐樋町(現在の山口県萩市)で生まれた。叔父は藤田財閥の藤田伝三郎。 恵まれた環境で育ち、慶應義塾を卒業後、叔父の藤田組に入社する。
1891年(明治24年)に小坂鉱山に赴任し、精鉱課長や坑業課長など主に採鉱や精錬の現場で実績を積み、1900年(明治33年)に小坂鉱山の所長に就任した。
小坂鉱山は当時、銀の価格低落で閉山の危機を迎えていた。久原は、組成が複雑であるために精錬が困難で利用されずに放置されていた黒鉱に着目した。竹内維彦を招聘し、黒鉱の精錬法の研究を重ねた結果、1900年(明治33年)黒鉱から銅を精錬することに成功し、小坂鉱山は銀山から日本有数の銅山として蘇った。
この成功で自信をつけた久原は、独立を決意する。
1905年(明治38年)、36歳。藤田組から独立して日立鉱山を購入した久原房之助は、まず1906年(明治39年)1月1日に鉱山事務所の規則や勤務心得を作成するなど鉱山の組織を整備し、続いて2月には第一立坑の開鑿を開始し、鉱山附属の診療所を開設した。
しかし、現実は甘くなかった。
創業直後の三重苦 — 資金難、人材流出、技術的壁
創業時、鉱山主久原房之助は36歳、中心となる職員は30代という若者集団でした。久原自ら坑内作業を始め何でもやったと語っています。
しかし、当初、生産は上がらず、その上5月には赤沢銅山以来の従業員が久原の鉱山経営に反発し、同盟罷業を行う事態が発生した。
さらに追い打ちをかけたのが、資金提供者である鴻池銀行から派遣された所長・神田礼治との対立だった。
積極的に日立鉱山を開発しようとする久原と堅実な開発を志向する神田は激しく対立するようになり、断層によって鉱脈が途切れ、日立鉱山には見込みがないと判断した神田は鉱山開発中止を久原に進言するに至り、結局1907年(明治40年)3月、一年足らずで神田は所長を辞任することになる。また神田とともに日立鉱山にやってきた中堅の技術者たちも全員辞職した。
資金難、人材流出、技術的壁。三重苦である。
普通の経営者なら、ここで諦める。しかし、久原は違った。
人材を信じる — 「おらがヤマ」を作る
窮地に陥った久原を救ったのが小坂鉱山で久原のもとで働いた人々であった。第二代所長として久原は小坂時代からの右腕である竹内維彦を任命するなど、多くの人材を小坂鉱山から引き抜いた。小坂鉱山では職員だけでも40名以上が日立鉱山に移り、「小坂勢」と呼ばれるようになった。
小平は日立が企業として成長した要因を、勤勉誠実な仕事仲間がいたこと、久原房之助と鮎川義介の支援を得たこと、顧客から信愛されたことの三つを挙げている。
久原が優れていたのは、人材を「信じて任せる」姿勢だった。
1910年、小平浪平が久原に嘆願する形で、久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立した(1920年(大正9年)に株式会社化し久原鉱業より分社化する形態で独立)。
久原は、地味な電気機械製造にはあまり関心がなかったと言われるが、小平の情熱を信じて設立を許可した。この決断が、後の日立製作所という巨大企業を生む。
さらに久原は、従業員が「おらがヤマ」と呼ぶ、家族的な企業文化を作り上げた。
鉱山では、都市部から離れた山深い環境で暮らす従業員やその家族の中に「一山一家」と呼ばれる相互の絆が強い独特の気風・風土が生まれた。久原は、鉱事業を成功させるためには「従業員が安心して働ける環境への配慮」が必要と考え、家族と共に生活できる住居だけでなく、学校や鉄道、病院、娯楽施設を含めたまちづくりに取り組んだ。
社宅は、家賃・電燈料が無料で、外観は鉱員と役員との間に差異がないよう簡素な造りとなっていた。供給所では、食料、燃料、衣料、金物、雑誌など、市場価格よりも安価で販売していた。日立鉱山専用電気鉄道は、無料で乗車できたことから多くの人に親しまれた。
1910年(明治43年)頃には県下随一の総合病院であった「大雄院病院(現 日鉱記念病院)」、東京・歌舞伎座を模した本格的な芝居小屋「共楽館(現 日立武道館)」などは、先進的な取組であり、鉱夫たちは職・住一体の生活環境を「おらがヤマ」と呼び自慢した。
久原の人材マネジメント vs 一般的な企業
| 特徴 | 久原房之助 | 一般的な企業 |
|---|---|---|
| 採用 | 実力ある人材を信じて任せる | 学歴や経歴で判断 |
| 育成 | 現場で実践しながら学ばせる | 座学中心の研修 |
| 待遇 | 無料住宅、病院、娯楽施設を提供 | 給与のみ |
| 企業文化 | 「一山一家」の家族的結束 | 上下関係が厳格 |
| 結果 | 優秀な人材が集まり、忠誠心が高い | 人材の流出が多い |
久原が作り上げた「一山一家」の文化は、現代の「従業員エンゲージメント」「ウェルビーイング経営」の先駆けと言える。
人材を単なる労働力として扱うのではなく、家族として大切にする。その姿勢が、日立鉱山を日本有数の銅山へと押し上げた。
煙害問題 — 経営の「死活を決する」危機
しかし、日立鉱山の急成長は、深刻な副作用を生んだ。
煙害問題である。
久原は大規模な自家発電により坑内外の電化を行って開発に成功するが、07年早くも鉱山の「死活を決する」煙害問題が発生し、関右馬允を指導者とする近隣農民の煙害反対運動に直面した。
製錬所から出る亜硫酸ガスが、周辺の農作物を枯らし、森林を破壊した。地域住民は激怒し、鉱山の操業停止を求めた。
当時、多くの鉱山は煙害問題で地域と対立し、裁判沙汰になっていた。しかし、久原は違うアプローチを取った。
他の有力鉱山が公害問題で地域住民と対立したのを尻目に、久原は地域との対話を推進し、煤煙撲滅のため、さまざまな投資を実施した。近隣農地を詳らかに調査し、ばい煙の被害にあった農家に補償金を支払った。また農事試験場を設立し、煤煙に強い植物を研究するなどした。
農事試験場は、オオシマザクラがばい煙に強いことを発見し、ばい煙で山林を失った場所にオオシマザクラを植林した。また周辺の山々に高度気象観測所を設置し、観測気球を飛ばすなどして、煙の流れ、高高度の風向などを調査した。
しかし、それでも煙害は収まらなかった。
そこで久原が下した決断が、「世界一の煙突を建てる」だった。
「世界一の煙突を建てろ」— 常識を覆す大勝負
さらに彼は、煤煙抑止の目的で三つの煙突を建設したが、いずれも失敗。しかし久原はあきらめず、気象観測データを基に、高さ約156mの「大煙突」の建設を実行し、この煙突の稼働により煙害は激減した。
試行錯誤の末、14年、当時としては世界一の高さを誇る155.7mの煙突(おばけ煙突)を建設し、危機を乗り切った。日本で最初の高煙突拡散方式である。
当時、世界一の高さ。莫大な建設費。技術的困難。そして、成功の保証はゼロ。
周囲は反対した。「そんな高い煙突は倒れる」「無駄な投資だ」と。
しかし、久原は譲らなかった。
なぜなら、彼は「地域と共存しなければ、鉱山の未来はない」と理解していたからだ。
久原は晩年、公害問題について以下のように述べています。「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている。科学の発達につれて、公害もますます多角化していく。これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して『克己』ということを教えてくれているとも言えよう。」
大煙突の完成により、煙害は劇的に減少した。そして久原は、この経験を他の鉱山にも展開していく。
大煙突が完成した大正4年(1913)以降、久原房之助は大分県佐賀関製錬所、朝鮮鎮南浦に大規模製錬所を建設、どちらも日立の大煙突を越す世界一の大煙突を建てた。
久原が教えてくれるのは、問題から逃げずに、正面から向き合う姿勢だ。
煙害問題を「コスト」として捉えるのではなく、「地域との共存のための投資」として捉えた。その視点の転換が、日立鉱山を救った。
拡大から破綻、そして政界へ — 失敗を恐れない挑戦
大煙突の成功後、久原は事業を急拡大させる。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦勃発によって日本経済は好況に転じ、特に日本の鉱工業部門はアメリカに次ぐ繁栄を呈した。房之助はこの機を逃さず、久原鉱業の拡充をはかる。金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に臨んだ。
続けて、国内各地の鉱山を次々と買収し、30以上の鉱山を開設、朝鮮の甲山鉱山やフィリピン、ボルネオ等東南アジアの鉱山開発を進めた。
1912年(大正元年)に久原鉱業所(後に日本鉱業と改名、現在のJXTGホールディングス、JX金属)を設立して同社の社長となる。鉱山経営を足がかりにして企業を拡大し、造船業・肥料生産・商社・生命保険を傘下とする久原財閥を形成する。
しかし、第一次世界大戦後の不況が久原を襲う。
1918年(大正7年)11月1日、第一次世界大戦は終結した。一時的に景気は活況を呈したが、1920年(大正9年)3月15日、東京株式市場は大暴落、世界経済恐慌のあおりをうけ銀行の取り付け、会社の倒産があいつぎ、房之助も大恐慌の直撃をうける。
短兵急に事業を拡大したために無理が災し、大正末期に中核だった久原鉱業を義兄の鮎川義介に譲渡し、同社からはのち日産自動車などが派生する。
経営破綻。実業界からの引退。
普通なら、ここで人生が終わる。しかし、久原は違った。
彼は政界へ転身し、衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。
戦後はA級戦犯容疑者となり公職追放されるが、その後も日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。
戦後政界を引退してからは、日中・日ソ国交回復国民会議会長に就任して、中国では毛沢東・周恩来と会談、ソ連ではミコヤン副首相と会談するなど、民間外交による両国との国交正常化に尽力をした。
1965年(昭和40年)1月29日、95歳で死去。
波乱万丈の人生だった。しかし、久原は最後まで挑戦し続けた。
久原房之助が教えてくれる、経営者の覚悟
久原房之助の人生から、私たちが学べることは何か。
1. 危機を成長のチャンスに変える
煙害問題という経営の「死活を決する」危機に直面した時、久原は逃げなかった。むしろ、世界一の煙突を建てることで、地域との共存という新しい価値を生み出した。
現代のビジネスでも、環境問題、人権問題、サプライチェーンの透明性など、様々な社会課題が企業に突きつけられている。これらを「コスト」として捉えるのではなく、「新しい価値を生むチャンス」として捉える視点が必要だ。
2. 人材を信じて任せる
久原は、小平浪平に日立製作所の設立を許可した。竹内維彦に製錬技術の開発を任せた。そして「一山一家」の文化を作り、従業員に安心して働ける環境を提供した。
人材を「信じて任せる」。そのシンプルな姿勢が、日本を代表する企業群を生み出した。
3. 地域と共存する
久原が他の鉱山経営者と決定的に違ったのは、「地域との対話」を重視したことだ。補償金を払い、農事試験場を作り、大煙突を建てた。短期的にはコストだが、長期的には地域の信頼を得て、持続可能な経営を実現した。
現代で言えば、ESG経営、ステークホルダー資本主義の先駆けである。
4. 失敗を恐れず、次の手を打つ
久原は事業拡大で失敗し、久原鉱業を手放した。しかし、そこで終わらず、政界へ転身し、戦後は民間外交で活躍した。失敗しても、次の手を打ち続ける。その執念が、95年の人生を支えた。
あなたは、危機の中に何を見るか
久原房之助が36歳で日立鉱山を買収した時、誰も成功を予想しなかった。
資金難、人材流出、煙害問題。次々と襲いかかる危機。
しかし、彼は諦めなかった。
人材を信じ、地域と対話し、世界一の煙突を建てた。
そして、日立製作所、日産自動車、日本鉱業という、日本を代表する企業群を生み出した。
あなたの前にも、今、壁があるかもしれない。
資金が足りない、人材が集まらない、市場が冷え込んでいる。
しかし、久原が教えてくれるのは、危機の中にこそ、成長の種があるということだ。
問題から逃げずに、正面から向き合う。 人材を信じて、任せる。 地域や社会と共存する。 失敗しても、次の手を打つ。
久原房之助が95年の人生で体現したこの4つの覚悟を、あなたのビジネスに活かしてほしい。
危機は、終わりではない。
始まりだ。



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